2014年11月23日日曜日

掲載サイトの変更

いつも、本ブログをご拝読いただき、誠にありがとうございます。

今後の「インドネシアあるくみるきく」は、私のホームページに統合して掲載していきたいと思います。以下のページヘアクセスしていただければ幸いです。

 インドネシアあるくみるきく(新サイト)

なお、このサイトでは、過去記事も読むことができるようになっております。

同様に、姉妹ブログの「食との出会いは一期一会」も、同様に、以下のページヘアクセスしていただければと思います。過去記事も読むことができるようになっております。

 食との出会いは一期一会(新サイト)

引き続き、ご拝読のほど、よろしくお願いいたします。

2014年11月16日日曜日

バンコクで「マカッサル」を探す

11月13〜16日の日程でタイのバンコクへ来ている。

用務のほうは14日に早々に終わり、久々に8時間眠った後、15日は街歩きに出かけた。

最初は、博物館や美術館へ行こうと考えた。しかし、昔からバンコクへ行ったら行きたいと思っていたところを思い出した。バンコクにある「マカッサル」を見に行くことにしたのである。

バンコクの「マカッサル」(Makassar)とは、マッカサン(Makkasan)である。スワンナプーム空港からの鉄道シティラインの拠点駅の名前でもあるマッカサンは、マカッサルから由来した地名である。

その昔、17世紀後半、オランダとの戦いに敗れたスラウェシ島南部(現在の南スラウェシ州)のゴワ王国の人々は各地へ散り散りになって逃げたが、そのなかに、アユタヤ王国まで逃げてきた者たちがいた。彼らはアユタヤ国王に温かく迎え入れられた。そして、フランスが後にアユタヤ王国を攻めた際には、勇猛果敢にフランス軍と戦ったと言われている。その功績を称えて、彼らの居住地をマッカサンと名付けられたのだという。

この話はインドネシア側でいわれている話なので、タイでどのような話になっているのかは分からない。なお、マッカサンという名前は、オーストラリア北部のアボリジニーの伝承で、北から交易にやってきた人々の名前として知られてもいる。




さて、おそらく、マカッサルの面影を見つけることは難しいだろうと思いながらも、そのマッカサンを歩いてみた。20分に1本しか来ない空港鉄道のラチャプラロップ駅で降り、その周辺を歩いてみた。

まず、目に入ったのが、タイ国王らの写真が掲げられた「Welcome to the ASEAN Community」という表示板。インドネシアではこの種のものをまだ見たことがない。


大通りをしばらく歩くと、金物屋やガラス屋などが並ぶ。サイアム駅周辺やチットロム駅周辺などとは違う、私が昔来た頃に見たバンコクの雰囲気がよみがえる。

地図によるとマッカサン市場やマッカサン郵便局などがあるはずなのだが、見つからなかった。大通りから1本脇道に入ると、公園があった。公園の上を巨大な高速道路が通っていて、景観は台無しになっていた。


高速道路の高架の下は、静かな空間。人々の生活道路は確保されていて、高速道路で寸断されていない。

ラチャプラロップ駅へ戻って、マッカサン駅まで歩いてみることにした。タノン・ニッコム・マッカサンという名前の通りを歩いてみたのである。

ラチャプラロップ駅周辺の空港への高架鉄道の下には、タイ国鉄の線路が通っていて、その脇で生活する人々がいた。そこを列車が通って行った。



マッカサン駅までの道は、工事中の人々の小さな家々や工事現場の埃などの混じった単調な道だった。いくつかホテルはあるが、ショッピングセンターも歩道を歩く人々の姿も何もない。




炎天下に汗を書きながら、こんな道をひたすら歩いている自分が異常なのかもしれない。



入っては見なかったが、労働博物館、というのもあった。


沿道の屋台では、ちょうど昼食の時間だった。



ようやく、マッカサン駅に到着。駅の周りには何もない。こんなところが空港からの起点駅なのが不思議に思われる。



さすがに暑い。昼食前でお腹も空いた。ともかく、早くMRTかBTSに乗って涼みながら、昼食場所を探そう、と思った。

結局、マッカサンでマカッサルの面影を探すことはできなかったが、「ここでゴワ王国の末裔が暮らしていた」ということを思いながらの街歩きは、なかなか趣深いものであった。

シーロムのショッピングモールで昼食の後、今度は「ジャワ」を見つけに出かけた。

2014年11月2日日曜日

真実とは一体何であろうか

(ルワンダ南部ムランビの虐殺現場にはフランス軍が駐留。しかし虐殺は放置された)

昨日、友人のFBでルワンダ虐殺20年に関するBBCの放送に対して、ルワンダ政府が反発し、ルワンダ内で放送を聴けなくする措置をとったことを知った。

 Rwanda bans BBC broadcasts over genocide documentary

放送では、ルワンダ虐殺の真実を追求する調査プロジェクトを実施している2名のアメリカ人研究者により、ルワンダ虐殺で殺害された人数はトゥツィよりもフトゥのほうが多いという見解が紹介された、という。

ルワンダの現カガメ政権はトゥツィ主体の政権で、国民和解を進めているが、現政権がともすると取りがちな「虐殺の首謀者はフトゥで、自分たちトゥツィがそれを正して国家を救った」という見解に沿わないと政権側に判断されたようである。

アメリカ人研究者の調査内容についての詳細は未読だが、ウェブ上で、彼らの見解の幾つかをざっと見ることはできる。

 What Really Happened in Rwanda?

彼らは「虐殺の否定者」とレッテルを貼られたりするようだが、上記のウェブを読む限り、虐殺を否定しているわけではないように読める。

虐殺はあった。でも、多数派のフトゥが一方的に少数派のトゥツィを殺害したのではなく、双方が殺し合った。虐殺が起こった場所と20年前の当時のフトゥ側・トゥツィ側の支配勢力地図とを照らし合わせると、トゥツィ側の支配地域でも虐殺は起こっている。

カガメがトップだったルワンダ愛国戦線がウガンダからルワンダ国内へ侵攻した後、虐殺がひどくなった。カガメは当時、フトゥ側の政権の軍の上層部と関係があり、大統領機の撃墜にカガメが関わっている可能性がある、などという話である。

これらを読む限り、アメリカ人研究者は、決して、「実はフトゥのほうが正しい」と主張しているわけではない。ただ、フトゥだけが非難されるのではなく、トゥツィもまた非難されるべきだ、というニュアンスは読み取れる。

彼らは、ルワンダ国内で調査中に、ルワンダ政府から何度かお咎めを受けたようである。おそらく、そこで感じた強権性への反発も、彼らの見解に影響を与えている可能性はあるだろう。

ルワンダ政府は現在、フトゥ政権を支えたとしてフランスに対して厳しい態度を示している。とくに、フトゥ政権に対して軍事援助を行っていたこと、フランス軍が虐殺の現場にいながらそれを放置したこと、などを非難している。

筆者は、ここで彼らの見解が正しいかどうかを論じるつもりはない。それよりも、研究者がインタビューなどを通じて明らかにしようとしている「真実とは一体何か」「真実を追求することは何よりも貴いことなのか」ということを問いかけてみたいのである。

上記のアメリカ人研究者2名は、ルワンダに100日間滞在し、各地で住民にインタビューをした。その結果、ルワンダ政府見解とは異なる様々な「事実」が発見された、ということのようである。

しかし、果たして、それは本当に事実なのだろうか。

筆者は以前、FASID主催の海外フィールドワーク・プログラムで、日本の大学院生を連れてインドネシアの南スラウェシ州のある農村で10日間を過ごした。そのなかで、参加者と一緒に、モスクで説教師のおじさんから村の歴史について話を聴く機会があった。

この村のある地域は、1950年代、中央政府に反発して反乱を起こしたダルル・イスラームの支配地であった。説教師のおじさんによると、村は「政府」軍に守られ、近くの町に迫ってきた敵を倒してくれた、政府が助けてくれた、という。史実では、町に迫ってきたのが政府軍で、この地域は反政府軍が支配していたはずである。

話を聴くうちに、村を守っていたのは反政府軍だったはずが、どこでどう変わったのか、説教師のおじさんは、その反政府軍を政府軍と認識していることが明らかになった。参加者の一人が説教師のおじさんの語りを遮り、「おかしいではないか」と言おうとしたが、筆者はそれを止めた。まずは話を聞こうではないか、と。

説教師のおじさんは史実を誤解している。おそらく、その史実を住民たちへ説いてきている。しかし、そのお蔭で、この村は、反乱軍の村だったという理由で政府から弾圧を受けることはなかった。村はそのまま存続できた。政府軍の高官か誰かは知らないが、村の人々に嘘の史実を伝え、それを人々が誤解して信じたことで、村の人々は自分たちの村を今までつつがなく存続させることができた。そういうことではないかと察した。

研究者が真実を追い求めることは重要である。しかし、この村の人々に真実を伝え、誤解していることを認知してもらうことは、果たして良いことなのだろうか。むしろ、安らかな村の状況に波風を立たせ、人々の間に疑心暗鬼を呼び起こしはしないだろうか。真実を告げる研究者は、その村の将来に責任を持てるのか。データだけを集めて、その村から去ってしまうのが普通なのではないか。

もしかすると、インドネシアはこうした多くの村という末端での様々な誤解によって、国としての統一を保たせているのではないかとさえ思った。

たとえ、その統一にヒビを入れてでも、真実を村の人々が知ることのほうが重要だと、我々外部者が言えるものだろうか。その真実を受け入れられるとしても、それまでには長い時間が必要とされるのではないか。あるいは、長い時間が経っても、真実を受け入れないほうが平和であったりするのではないか。

ルワンダに話を戻そう。果たして、ルワンダの人々はアメリカ人の研究者に「事実」を話しているだろうか。あのときに虐殺に関わった人々がまだ近辺に存在するとしたら、あの忌まわしい出来事をそのまま客観的に話すことは難しい。今の自分たちの生活を守ることこそが重要である。

カガメ政権のBBCへの反応は、そうした20年前の傷がまだ皮膚のすぐ下でうずいていることを示している。研究者が真実を明らかにしようとすることは貴いかもしれないが、それがルワンダの人々の何をプラスにするのだろうか。

カガメ政権を決して全面的に擁護するわけではないが、今は、生活を落ち着かせ、傷のうずきを減らすために皮膚を厚くすることが第一のような気がする。

決して、ルワンダ虐殺の真実を追求する研究者の活動を中止せよと言っているのではない。しかし、外部者としては、その調査内容の提示の仕方に、当事者への配慮があって然るべきだと思う。そうでなければ、たとえそうは意識していないとしても、何らかの政治的意図を持って、BBCを利用したと捉えられてもしかたがない。

それにしても、ルワンダ虐殺は、美しき誤解を作れないほど、国民に深い傷を与えてしまっているような気がしてならない。カガメ政権は、そうした美しき誤解を「真実」とするだけの時間を確保する長期政権となるのだろうか。

それはそうと、誤解がいつの間にか「真実」「事実」になるというのは、日本を含めて、どこの世界にもある話だろう。それは、思い込みというものと紙一重なのである。

誤解したままのほうが望ましい、と言っているわけではない。我々は、そうした「真実」「事実」に対してその真偽や意義付けを自ら判断できる、自ら考える頭を持っていなければならないのである。その判断のなかには、むしろ美しき誤解のままのほうがそこの人々にとっては望ましいのではないか、という判断もあり得るということである。

2014年10月23日木曜日

「インド×日本で5人の地域づくりの「プロ」を育てる」プロジェクトへの支援お願い

筆者がお世話になっているソムニードの和田信明代表から、以下のようなメールを受け取りました。

彼らによるトレーニングや研修は、まさに本物です。5人限定、というのは本物を育てるための機会だからです。参加者は必ず、目からウロコ状態の連続となるはずです。

日本の若者にこうした場を提供するためにも、皆さんからの支援をお願いしたいです。是非とも、よろしくお願いいたします。

個人的には、いずれ、「インドネシア✕日本で5人の地域づくりの「プロ」を育てる」をやってみたいです。日本人だけでなく、インドネシア人の地域づくりの「プロ」も育ててみたいです。

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松井 和久 さま

いつも、ソムニード(この11月1日より、ムラのミライと名称が変わります)へのご支援、ありがとうございます。

私が常駐するここ、ヒマラヤの麓カトマンズも、すっかり秋めいてきました。

天が近いせいか、日中の日差しはなかなかの強さですが、朝夕は、そろそろコートがいるかというこの頃です。

さて、ご案内の通り、現在、ソムニードは、日本で地域興しを志す若者たちを支援するキャンペーンを実施中です。

今、日本には、過疎と高齢化に衰退していく地方に根ざし、地方の可能性を掘り起こし、
豊かな自然の中で自分と日本の未来を築こうとする若者たちが、少なからずいます。

ただ、志と意欲だけがあっても、どのようにそれを実行していくか、

とりわけ、地元の方たちとどのようにコミュニケーションを取り、どのようにともに未来図を描いていくか、その方法が分からず、立ち止まり、悩む若者たちがほとんどです。

このキャンペーンの狙いは、一言で言って、そのような若者たちが必要とする技術を伝え、彼らの背中を後押しすることです。

幸い、私たちには、インドやその他の国で幾多の困難を克服しながら築き上げたそのような技術があります。

また、すでにインドで研修を受け、日本で実際にその技術を使いつつ地方で新たな動きを作り出している若者たちもいます。

このつど、そのような動きをより確かなものとするために、そのことに特化した「道場」を長年ソムニードが経験を積んだインドで立ち上げることにしました。

言うまでもなく、志があっても、先立つものがなかなか用意できない若者たちが多くいます。

彼らの意欲を無駄にしないためにも、そして、新しい日本の可能性をより現時的なものにしていくためにも、私たちはぜひ、この試みを成功させようと決意しています。

どうか、この私たちの意図をお汲み取りいただきまして、このキャンペーンにご支援をたまわりますよう、お願い致します。

<詳細、ご支援はこちらから>
「インド×日本で5人の地域づくりの「プロ」を育てる」プロジェクト
http://www.giveone.net/cp/PG/CtrlPage.aspx?ctr=pm&pmk=10375 

また、TwitterやFacebookでのシェアやお知り合いへご紹介いただけると幸いです。


NPO法人 ソムニード(11月よりムラのミライ)
和田 信明
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<キャンペーンに関するお問い合わせ>
NPO法人 ソムニード (11月よりムラのミライ)
プロジェクト担当:前川香子、田中十紀恵
west@somneed.org

http://www.somneed.org
http://www.facebook.com/SOMNEED
〒662-0856兵庫県西宮市城ヶ堀町2-22 早川総合ビル3F
電話/FAX 0798-31-7940

2014年10月21日火曜日

普通の人ジョコウィは只者ではない

(注:以下は、Matsui Glocalに掲載したものと同じものです)

10月20日、ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)新大統領とユスフ・カラ新副大統領が就任した。

就任式でのジョコウィの簡潔な就任演説、就任祝賀パレードで埋め尽くされた人々から次々と揉みくちゃにされている笑顔のジョコウィ、カラ。

警備という言葉がどこか飛んでしまいそうな、権力者と庶民の近さである。

大統領はもはや雲の上の人ではない、自分たちと同じ人間だという感覚。大統領になるなんて思いもしなかったジョコウィには、自分も沿道の人々と同じだという思いがある。

大統領は仕事。大統領は成り行きでなってしまったもの。自分は自分。

多くの政治家が権力者になりたがるのとは対照的な、覚めた自分を持っているジョコウィ。今日のそんな笑顔のジョコウィには、自分を選んでくれた国民に対する感謝の気持ちがあふれているように見えた。

これまでのインドネシアの支配体制では、権力者が王様のように振る舞いがちであった。地方首長選挙の弊害の一つは、当選した地方首長が家族を重用し、王国を作ってしまう傾向にあった。

ユドヨノ前大統領は、10年間でそれを露骨にできる立場にあったにもかかわらず、自ら率先して王国を作るところまでは行かなかった。ユドヨノもまた、権力欲をむき出しにするタイプではなかった。

その意味で、ユドヨノはジョコウィに近い。ユドヨノも、自分が普通の人間であることを自覚していたように思える。アニ夫人のインスティグラムの写真はとても微笑ましいものだ。

そう、10年前、ユドヨノがインドネシアで初めての公選大統領に就任するときも、決して偉そうに振る舞ってはいなかった。自分も普通の国民の一人という感覚を持ち合わせていたと思う。あのときも、人々は自分たちの目線で物事を捉えられる指導者を求めていたのだった。

しかし、政治家の多くは、まだまだ自分を特別視していた。選民意識が強かった。特権を持った自分たちがなんでも決められると錯覚した。政党は政治家個々人の思惑を実現する装置にとどまり、成熟するには至らなかった。ユドヨノはこれら幼稚な政党を、赤子をあやすように相手にしなければならなかった。

10年が過ぎ、国民は今も自分たちの目線で物事を捉えられる指導者を求めている。政治家は今も選民意識が強く、一般国民との距離は開いたままである。彼らは「国民の代表」という顔をしながら自分の利益の実現を欲している。

政治エリートが自らを変えていけるか。これがインドネシア政治の最大の課題である。

その意味でも、ジョコウィ=カラの祝賀パレードが映像として全国へ流れたインパクトは無視できない。なにせ、インドネシアでこんなことをした指導者は初めてであるし、世界的に見ても、警備上の問題などで、まずあり得ない出来事だったからである。

映像に映し出されたのは、「みんなのジョコウィ」だった。特定の政治勢力の専有物ではない、インドネシアのみんなのための大統領だった。

大統領就任を前に、ジョコウィは、大統領選挙で敗北し、リベンジに燃えていたはずのプラボウォの家へ誕生日のお祝いのために駆けつけ、双方が敬意を表した。大統領就任式のときには外国へ出かけている予定だったプラボウォは、急遽帰国し、就任式に出席。ジョコウィの就任演説でも再度プラボウォに敬意が表され、なかなか敗北を認められず、落とし所を探りあぐねていたプラボウォの矛を自ずと収めさせることができた。プラボウォは自分のプライドを傷つけられずに収められた。

このような、敵を自分の側へ取り込めるジョコウィの能力は、今後の政局運営との関係で、見過ごすことができない重要な能力である。プラボウォは、もうリベンジに精を尽くす必要はなくなった。

そしてジョコウィは、政党色のないプロフェッショナルな内閣を作ることを約束している。

反ジョコウィでリベンジに燃えているとされた議会での「紅白連合」は、ジョコウィが政党に縛られている限りにおいて、その存在意義がある。ジョコウィ政権が政党色を出さなければ、紅白連合は攻めるのが難しく、自ずとその意味を失っていくだろう。

実際、プラボウォに密着していたゴルカル党のアブリザル・バクリ党首は、ジョコウィの就任演説後、ゴルカル党がジョコウィ政権を支持する意向を示した。プラボウォが党首を務めるグリンドラ党でさえ、ジョコウィ支持を言い出すかもしれない。それは、ジョコウィが特定政党の意向に沿った政権を作らない考えだからである。

これまでのプロセスを見ると、ジョコウィは実に巧みに自分が動きやすい環境を作ってきている。議会の話が中心の間は、様子をうかがいながら、自分の所属する闘争民主党など、選挙戦のときの与党側を立てていた。しかし、闘争民主党が圧勝しなかったからこそ、ジョコウィが政党の縛りから外れる状況が現れた。

おそらく最初から、ジョコウィは内心、それを表には決して出さなかったが、与党だけで政権運営をするつもりなどなかった。政党を超越したプロフェッショナルによる政権運営を考えていた。それを出せるタイミングを上手く見計らいながら、大統領就任にこぎつけた。

さあ、いよいよ、ジョコウィが真骨頂を発揮できるときが来た。まずは、どんな布陣で内閣を組織するかが見ものである。新閣僚は、たとえ政党幹部であっても、幹部職からの離脱が条件である。もちろん、ジョコウィ自身も、闘争民主党の一般党員ではあるが、党のために動くという姿は見せないはずである。大統領となった今、もはやメガワティ党首の下僕とはならない。

普通の人であるジョコウィ新大統領。実は、なかなかの巧者である。決して侮れない。只者ではない。ユドヨノのときとは違って、政党は彼に相当振り回されるだろう。そして、鍛えられるであろう。そう望みたいところである。

2014年10月9日木曜日

福島、山形、仙台、新宿

10月4〜14日の予定で日本に一時帰国している。

さっそく、10月6〜7日に福島、7〜8日に山形、8日に仙台に寄ってから東京、という日程をこなしてきた。

福島では実家に帰るとともに、前から会いたかった方々3名にお会いした。震災後、たくさんやってきていた外部者による支援、潮が引くように減っている状況がうかがえた。今後の活動は、おそらく外部者による支援という形ではなく、様々な人々による共創になっていくのではないか。そんな思いを強くした。

山形では、山形ビエンナーレを駆け足で見学した。見学できたものはわずかだったが、東北、山、門といったものが「ひらく」ということを象徴するように思えた。表現の一つ一つに、粗削りではあるが、ふつふつとほとばしる力を感じた。




山形ビエンナーレを見学しながら、東日本大震災のとき、真っ先に支援物資供給などで動いたのが山形だったことを思い出していた。青森、岩手、宮城、福島は交通が遮断されて孤島になっていたとき、物資輸送の後方支援基地として山形が果たした役割を忘れることはできない。

東北芸術工科大学。以前、筆者はこの大学の『東北学』のシリーズを購読し、友の会の会員だったが、その頃から一度来てみたかったキャンパスだった。ほんのわずかの滞在だったが、キャンパスから見た夕日は、建物の前にある池にも映えて、とても美しかった。




この大学に着いたとき、バス停の前は学生たちの長蛇の列だった。時刻表を見ると、山形駅行きに加えて、何と仙台行きのバスもある。仙台からだと、きっと1時間ぐらいで着くのだろう。

東北芸術工科大学内で「東北画は可能か?」という展示を見た後、山形駅行きのバスの時間を気にしながらバス停に来ると、バスは停まっているが、学生の長蛇の列は消えていた。あの学生たちは皆、仙台行のバスに乗ったのだった。

山形駅行きのバスの乗客は、私を含めてわずか2名だった。

後で聞いたら、山形の大学で学ぶ仙台出身の大学生は、ほとんどが仙台から大学へ通っているとのことである。たしかに、繁忙時の山形=仙台間の高速バスは5分おきに運行されている。片道930円、通学定期券ならもっと安いだろう。

他方、福島出身の学生は、山形に下宿する傾向が強い。福島から通学できる交通手段が鉄道ならば山形新幹線しかなく、費用もかかる。福島=山形の高速バスは、夜行以外はない。事実、福島から山形へ車で行く場合は、仙台経由の高速道路で行くのが普通なのである。

山形の夜は、ジャカルタでお世話になって以来、約15年ぶりに知人との再会を楽しんだ。3種類の日本酒冷酒の飲み比べをしたが、十四代の吟醸酒というのがとても美味しかった。後で聞いたら、なかなか手に入れられない高価な日本酒なのだとか。日本酒に詳しくない自分が飲んでしまって、飲んべえの皆様にちょっと申し訳なかった。

最後の締めの肉そばが格別に美味しかった。


8日は、山形駅前から高速バスで仙台へ出た。1時間。快適なバス移動だった。JICA東北で1時間ほど打ち合わせ。東北ともじっくり関わっていく予感が沸いた。

駅前の利久西口本店で牛たん定食を堪能した後、初めて乗る「はやぶさ」で東京へ戻った。仙台=大宮がわずか1時間、早さを本当に実感した。

8日の夜は、友人の原康子さんが出した『南国港町おばちゃん信金:「支援」って何?”おまけ組”共生コミュニティの創り方』という本の出版記念トークイベント(紀伊国屋書店新宿南口店)を覗いた。



コミュニティ開発などの開発援助の現場では、よそ者がそこの人々の自立をどのように促すかがもっとも重要である。そのための「支援しない」技術を体得した原さんの面白トーク炸裂だった。「支援しない」技術が求められるのは、開発援助の現場だけではない。日本でも、職場でも、家族でも、どこでも。もちろん、東北でも。

この本の申し込み・購入は、以下から可能です。

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2014年9月27日土曜日

地方首長選挙法成立は明らかに民主化の後退

インドネシアの地方分権化・地方自治を、その芽生えから現在に至るまで、15年以上見続けてきた者として、やはり書かなければなるまい。

9月26日(金)未明、5日後に過去5年間の任期を終える国会は、地方首長選挙を「国民による直接選挙」から「議会による間接選挙」へ変えることを骨子とした地方首長選挙法を可決した。間接選挙への変更に賛成した議員が226名、直接選挙を堅持すべきと反対した議員が135名だった。

賛成議員の党会派は先の大統領選挙で敗北したプラボウォ=ハッタ陣営に属し、反対議員のそれは当選したジョコウィ=カラ陣営に属する。すなわち、地方首長選挙法をめぐる激しい議論は、結局は、大統領選挙の両陣営の戦いであり、プラボウォ=ハッタ陣営がある意味リベンジを果たした格好となった。

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プラボウォ=ハッタ陣営が地方首長選挙を間接選挙へ変えることに執心したのは、同陣営が大統領選挙後もジョコウィ=カラ陣営に対して負けた恨みを晴らすという一点で結集した「紅白同盟」(Koalisi Merah Putih: KMP)を、今後も維持し続けるためである。

彼らは国の重要政策について決して同じ考えを持っているわけではない。それをつなぎとめるには、カネやポストで釣るだけではなく、単純な主張が必要となる。今回、彼らの地方首長選挙法をめぐる議論でも、「インドネシアの民主化を西洋的なやり方から取り戻すため」「西洋民主主義ではなくパンチャシラ民主主義に戻すため」「直接選挙の結果、国富が外国勢に牛耳られる要素が高まった」といった、外国を敵視する主張が、何の論理的な脈絡もなく、繰り返された。

これは、とても危険な徴候である。「紅白同盟」の仮想敵は外国勢であり、外資とみて間違いではない。大統領選挙の候補者討論会で、プラボウォは国富の漏れが外国へ流れているのを止めて、それを開発へ活用すると述べていたが、その活用先として彼が真っ先に挙げたのは、高級官僚や政治家の待遇改善であったのを皆さんは覚えているだろうか。まず彼らの待遇が改善されないと汚職はなくならない、と彼は主張したのである。

国富の漏れを止めた後、それを誰にどのように配分するかは、大統領に選ばれた自分が適切に行う、と言わんばかりのプラボウォの演説であった。民主主義では、その配分が適切に行われるかどうかをきちんと第三者がチェックする仕組みが必要になる。でもおそらく、それは西洋的な民主主義の仕組みで、インドネシアにはそぐわない、と片付けることだろう。翻って言えば、自分たちの権益を守り、反対者の口を封じるために、外国(西洋)が仮想敵として活用されるのである。

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今回の最後の国会での議論を見ていても、中身の議論はほとんどなかった。

賛成派を勢いづかせたのは、民主党会派の退場であった。ユドヨノ大統領が党首を務める民主党は、当初は間接選挙に賛成していたが、先週、ユドヨノ党首が直接選挙の堅持を支持する方向性を示したことを受けて、条件付きで直接選挙の堅持という立場を採るに至った。民主党が提示した10項目の改善条件は、ジョコウィ=カラ陣営に属した政党会派も合意し、それら会派は民主党も間接選挙への変更に反対するものと思い込んでいた。

ところが、直接選挙か間接選挙かを投票を決める段になって、「州知事は間接、県知事・市長は直接というオプションが認められなかった」という理由で民主党会派が議場から退出した。これで、投票の結果は決まった。

多くの人々は、ユドヨノ党首が二枚舌を使ったと見なした。ユドヨノは最後の最後で自分が作り上げてきた民主的なシステムを自分で壊したという批判が出されたりもした。

しかし、国連総会に出席中のユドヨノは、民主党党首として「直接選挙を堅持」という自分の出した方針を貫徹せず、退場した民主党会派を厳しく批判し、犯人探しを始めた。留守を守るシャリフ・ハッサン党首代行は「民主党会派が勝手にとった行動だ」とユドヨノに同調した。

結局、民主党会派のヌルハヤティ代表が「退場」という決定を下したことが明らかになった。彼女はこれまで、頻繁に「紅白同盟」幹部とコンタクトしており、10月から発足する新国会での副議長ポストを「紅白同盟」から約束されていたという話が流れている。

それでも、ユドヨノの優柔不断さや二枚舌を念頭に、結局はユドヨノが自分を守るために嘘を言っているという声も強い。それほど、ユドヨノはもはや信頼を得られていないのである。

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それにしても、地方首長が議会で選ばれるというのは、2004年以前、スハルト時代の仕組みに戻るということを意味する。地方首長直接選挙は、言ってみれば、インドネシアの制度的民主化の一つの到達点だった。34州、550以上の県・市のトップが住民の一票で選ばれる。選挙自体で死者が多数出たりすることはない。

もちろん、不特定多数の有権者を念頭にカネを配り、かなり末端に至るまで候補者とその支持者どうしの対立が深まり、相当に根深い感情的なしこりをあちこちに作ってしまったことは確かである。当選した地方首長は地方ボス化し、選挙で使った資金回収のために、裏金作りなどの汚職に励むことが大きな問題となっていた。候補者どうしの対立が激しくなると、そこの地域社会が分断されることも多々あった。こうした状況を改善するために、以前のような議会で地方首長を選ぶ形に戻せば、住民どうしが対立することもなく、選挙資金も少なく済ませることができ、官僚も本来の業務に専念できる、という声も決して少なくはなかった。

しかし、それでも、住民が自らの手で地方首長を選ぶ経験を日常化したことの意味がある。普段の選挙では投票率が低いかもしれないが、いざ何かあれば、自分が投票できる、という機会をキープしていること自体に意味があるのである。住民は議会の議員も比例代表制による政党経由で選んでいるが、その議会をコントロールする役目を託して地方首長を選んでいる面がある。とりわけ、議員たちが汚職に走る現状を憂い、地方首長への期待が高まることもある。

地方首長が議会によって選ばれるとなると、改革派の地方首長はもはや現れないだろう。住民よりも先に、議員たちの機嫌を取らなければならないからである。車やら、家やら、ノートパソコンやら、様々なものを議員に提供し、業者がバックに付く議員に配慮してインフラ案件などをさばくことになる。しかも、うまくさばかないと、次の選挙では支持しない、といった脅しも地方首長は受けることになる。かつて、多くの地方首長が議員たちの懐柔に頭を悩ませ、住民のことなど考えていられない状況になった。住民のために動き、議員たちへの配慮の乏しい地方首長は、間違いなく次の選挙では立候補できなくなっていた。

現在のインドネシアには、議会との対決も辞さず、改革を進めていこうとする地方首長の人気が高まっている。だからこそ、ジョコウィのように、地方首長で実績を上げた人材が大統領にまで上り詰められる時代になったのである。もしも、地方首長が議会によって選ばれ続けていくならば、ジョコウィらはインドネシアの民主化の徒花として終わる運命となるかもしれない。地方首長選挙の次は、大統領を国会が選ぶ仕組みへ変えようという動きが出てくることが予想される。

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しかし、スハルト時代と違うのは、そうなってはならないと思う人々の数が圧倒的に増えたことである。

彼らはまず、憲法裁判所へ地方首長選挙法の違憲審査を求めるだろう。「間接選挙は民主化の後退」と明言したユドヨノ大統領は、自分の任期が終わる10月20日までに同法には署名しないものとみられる。ただし、法律の施行には大統領の署名が必要だが、署名なしでも、法律は可決から30日目で自動的に施行される。

30日目といえば10月25日、すでに10月20日にジョコウィが大統領に就任している。違憲審査請求が10月初めまでになされれば、それから結果が出る1ヵ月は法律は動かない。もちろん、ジョコウィ新大統領が法律の施行に反対を表明することだろう。制度的に地方首長選挙法への異議申立が進められるだろう。

一方、プラボウォ側は、国民の代表たる国会が成立させた法律の施行を迫るべく、様々な形で力を見せつける示威行動を行うかもしれない。地方首長選挙法の成立は、いまだジョコウィへのリベンジに燃えるプラボウォやその周辺にとっての第一幕にすぎない。第二幕は大統領選挙の間接選挙化であり、それを成立させる前であっても、ジョコウィを任期途中で引きずり下ろす戦略を考えるだろう。そのときに、外国敵視の話が使われることを危惧する。

たとえ間接選挙になっても、議員の態度や質に変化が起こり、有権者の代表としての意識が行動に現れれば、それなりによい地方首長を選出できるだろうが、そうなると期待している人々はほとんど居ないと思われる。

地方首長選挙法成立は明らかに民主化の後退である。それは、政党という今だに中央集権的な組織が、地方分権化の申し子とも言える改革派地方首長出現の可能性を摘んでしまうものである。

悲観的な論調の多いインドネシアのメディアだが、「地方首長選挙法は国民の権利を剥奪するという面で違憲である」といった判断が憲法裁判所から出され、法律が撤回される、ということもまだ起こりそうな気がしている。楽観も持ち合わせつつ、事態を注視していきたい。