2013年4月3日水曜日

カネ次第の文化は教育の現場から

1998年5月のスハルト政権崩壊以後、15年が経ち、インドネシアの民主化も地に足がついたかのように見える。かつて、言論や表現の自由が制限されていた時代からすると、雲泥の差がある。おそらく、今のインドネシアはアジアでも有数の民主主義を謳歌している国家であろう。

インドネシアの民主化は、憲法によれば、政党中心の政治をもとにする民主化である。議員の選出も、大統領や地方首長の選出も、すべて政党が基本になる。すなわち、政党から選ばれた者が国民の審判を経て議員になり、大統領になり、地方首長になる。

しかし、これら政治家への国民の不満は極めて高い。3月25日付KOMPAS紙が報じた同紙の世論調査によると、回答者の65.8%は政治家が私利私欲または政党の利益のために活動していると認識している。とりわけ、来年2014年総選挙へ向けた各政党の立候補選抜に対して、87.2%の回答者が「カネ次第」と見ている。立候補するためには、その母体となる政党にかなりの金額のカネを払わなければならない、という認識である。

多くの回答者は、政党は知っているが、候補者までは知らないと答えている。総選挙は比例代表制で、政党に投票するものの、各候補者のプロフィールをもっと知りたいという希望も少なくないようである。

候補者になるのもカネ次第、という構図は、実は政治だけに限る話ではない。学校に入学するのも、進級するのもカネがモノをいっている現状がある。警察官になるのも、公務員になるにも、まずはカネが要求される。すなわち、人物の能力や成績、やる気などが評価されるのではなく、まずはカネ、なのである。そしてそれが、学校という教育の現場で再生産され、それに慣れた子供たちが社会へと巣立っていく。

インドネシアの汚職は文化だという人がいるが、私は、こうした構造的なカネ至上主義の再生産構造をどこかでひっくり返さない限り、人物の能力や成績、やる気などで評価される仕組みは、表面上の格好は作れても(表面を取り繕うのはインドネシア人の特技の一つではある)、本当には作れないと考える。

とくに、教育の現場で、たとえ成績が良くても、カネやコネがないと進級・進学できないとするならば、そこで、子供たちはどのように世の中を渡っていくかをシニカルに学ぶことになる。そして、そこにこそ、世の中に対する不平・不満、宗教に頼って世の中を変えてやる、といった意識が生まれる温床があると思うのである。

参考までに、昔、翻訳+解説した拙稿を挙げておく。

幼稚園入園狂騒曲(ニ・ニョマン・アンナ・マルタンティ)


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